第1話
「……………………………か?」
「っ!」
思わず彼女を捕まえようとして、俺は飛び起きた。
すぐ外では、小鳥の鳴き声がしている。
カーテンの隙間からは、白い光が差し込んできている。
こちらのことなど一切お構いなしの、いつもどおりの、朝。
自然と、深いため息が漏れた。
さっきまでの夢が、最悪なまでにリアルに昨夜の出来事を再生してくれたせいで、背中にはびっくりするくらいの量の冷たい汗をかいていた。心なしか、いつもより頭は重く、鈍い。振り払うように頭を振ってみても、逆に軽いめまいのようなものを引き連れて帰ってくる。
絵に描いたような踏んだり蹴ったりの構図。
つくづく、最低だ。
「あぁー…………、くそっ。…………、はぁ」
苛立ち、髪をかきむしり、悪態をつき、また、ため息に戻る。短い時間でいくつもの感情がごちゃ混ぜになって襲ってくる、というのはこんな気分なのだろう。
すべての原因は、夢にまで出てきたあのことで間違いない。どうしようもなくて、どうしていいかもわからなくて、今でも引きずりっぱなしだった。いくら考えまいとしても、止められない。
考え始めたら、またしても同じシーンがぐるぐるとリピートし始める。
俺は、彼女の何を知っていたのだろう。
彼女の何を見ていたのだろう。
その答えは、どれだけ考えたところで、やっぱり考えるまでもないことだった。
うつむいた彼女は、苦しそうな声でうめきながら細かく震えていた。顔が見えなかったせいで、それが笑いをこらえているものだとわかるまでにしばらく時間が必要だった。
俺がそれに気づくと、タイミングを見計らったように、あははははは、という音声が飛び出した。
ひとしきりお腹を抱えて笑い終えると、そこには薄い笑みが張り付いたような無表情だけが残った。目には暗く、ゆらゆらとした光が宿っていた。
「孝也くんさ。本当、わかりやすいよね」
行きつけの、学生御用達の居酒屋のテーブル席。対面して座る彼女は、しみじみとうなずいた。
「私、イコール、清楚でおとなしい、ごくごく普通の女の子。その周りのイメージ、イコール、孝也くんのイメージで、ただなんとなく私と付き合ってるだけ。自分の目は一切使わないまま私を見て、それで全部わかった気になってる」
彼女は、緑の箱を取り出して見せた。そのとき初めて、彼女がタバコを吸うのを知った。
「でもね、私、本当は、そんな人間じゃないよ。そんな、いい人間じゃ、全然ない」
流れるような自然なしぐさで一本取り出してくわえると、見せつけるような手つきでライターの火をつけた。彼女の吐いた細く白い煙が、天井の換気扇目指して立ち昇っていった。
「私ね。
14のとき、初めて義理の父親の相手させられて、16のときには年ごまかして風俗でバイトさせられてたの。
入ったお金は全部あの人の酒とギャンブルに消えて、私には一日の食費さえ満足に与えられなかった。
体はどんどん痩せてって、肌もどんどん病人みたいになってって。
でも、そんなこと訴えても、辞めさせてくれるわけなくってさ。
このままじゃ、いつか、そう遠くないうちにあいつに殺されるって思った。
だから、家出して、逃げ出して。
でも、お金がないから、生き延びたいから、盗みだって援交だって、とにかくなんだってやって。
やっとなんとかここまで生きてきたの」
彼女が一言一言区切るたびに、タバコの先が白い灰に変わっていく。聞けば聞くほど、彼女の顔が正視できなくなる。煙が換気扇に吸い込まれていく様が妙に印象的で、俺はそればかり見ていた気がする。
その煙の元をぐっともみ消すと、彼女は身を乗り出して、俺をまっすぐに見つめた。
「ね、気づいてる? 今、この瞬間ですら、生きてくためのお芝居かもしれないんだよ?」
姿勢はそのままに、飲みかけのカクテルを一口含む。
「それにね。夜、目を閉じると、今でも出てくるの。いやらしく動く何本もの腕と、鼻の下が伸びたいくつもの顔。いったん思い出しちゃうと、もういても立ってもいられなくて、ウイスキーと睡眠薬を一緒に飲まないとダメ。特に体は全然で、お風呂で血が出るくらいまで洗わないと落ち着けない」
腕をさすりながら、「だからかな」と、彼女は冷たく笑ってみせる。
なぜか二の腕が粟立った。
「自殺を考えたことだって、数え切れないくらいあるの。――見て。この手首」
初めて、左手首の腕時計をはずして見せた。その手首には、いくつもの傷がかさぶたになって、さらにその上からなお、重ねて傷がつけられているように見える。
これが、彼女が今まで俺の前で時計をはずさなかった理由なのか、と初めて思い至る。
心が真っ黒く塗りつぶされていくような思いがした。
「――これでもまだ、私、死ねないんだ。こんなに死にたいと思ってるのに、その願いはなかなか叶わない」
改めて、彼女は妙に潤んだ笑みを向ける。その笑みに、俺は体が動かなくなる。息することすらも、苦しい。
「ねぇ。まだ、さっきと同じように答えてくれる?」
ゆっくり、俺の反応をいちいち楽しむかのように微笑む。この笑みを、試されてると感じたのは俺だけなのだろうか。
「私のこと、それでも愛してくれますか?」
俺は、何ひとつ答えてなんてやれなかった。
そして、その日は、そのまま別れた。

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