今日も沢口さんは、ハードカバーの世界に埋没していた。

 

 俺が、沢口さんと同じ電車、同じ車両に乗り合わせていることに気づいたのは、ほんのひと月前のことだ。
 ある日、電車が人身事故で遅れたことがあった。普段、俺は音楽を聴きながら、うとうととまどろむのだけど、一時間以上待たされたあげく、車内はすし詰め状態と言うこともあって、その日はそれどころではなかった。仕方なしに、窓からの景色と車内の乗客とを交互に眺めて、ぼんやりと暇を持て余していた。そんなとき、沢口さんがいることに気づいたのだ。
 沢口さんは、会社の先輩だ。長身だが、猫背がひどく、頭ひとつ背が違うはずの俺と、目線があまり変わらない。
 半年間で見たことのあるスーツは三種類。いずれも無地のシングル三つボタン。髪の毛は、ぼさぼさではなかったが、社会人として最低限整えた程度と言ったところ。基本、身なりには、無頓着な人である。
 代わりに、沢口さんは、大変な本の虫らしく、仕事中以外は、常に活字の世界に溺れていた。風の噂では妻子持ちだと言うことだったが、どんな家庭を持っているのか、俺には想像もできなかった。
 入社年次で言えば、俺の十個上。キャリアだけで言えば大先輩にあたる。
 役職は課長補佐代理。しかし、やっていることは、ぶっちゃけ、新人以上、中間管理職未満。
 俺の知る限り、沢口さんと言う人物は、こんな人だ。
 そんな人だから、一部から、「なりたくない未来」とか「窓際補佐代理」とか「むしろ窓際」とか、とかく不名誉なあだ名で陰口をたたかれている。
 当の本人はといえば、泰然自若とでも言った雰囲気で、そんな評判もまったく意に介さない様子だった。無口な上に、徹底したポーカーフェイスの人で、何を考えているのかよくわからないせいなのだが、たぶん、実際もそのとおりなんだろう。

 

 その、沢口さんが、ふと本から目を上げた。
 たまたま、目が合ってしまった。
 一瞬気まずい思いをしながらも、俺は会釈をした。
 沢口さんも会釈を返し、再び本に目線を戻す。ほっと胸をなでおろしていると、沢口さんは本を閉じた。あろうことか、たまたま空いたばかりの、俺の隣の席に腰を下ろした。
「おはよう」
「お、おはようございます」
「鷹野くんは、いつも、この電車だね?」
「えっ?」
 俺は驚いた。気づかれていないと思っていたのに。
「入社してから、ずっと同じ時間、同じ電車、同じ車両、だろう? 気づかないわけがないよ」
「はぁ」
 つまり、沢口さんは二年前から、俺のことを知っていたことになる。俺は一ヶ月前に知ったばかりだと言うのに。
「あ。あの、沢口さんは、いつも何の本を読んでらっしゃるんですか?」
 なんだか恥ずかしくなって、俺は話題を変えた。
 一ヶ月間、沢口さんを観察した限りでは、やはり常に何らかの本を読んでいた。カバーがかかっていたため、中身まではわからなかったが、ちょくちょく本は変わっているように見えた。
「起業の本だ。今度、会社を興すんだ」
「えぇっ!?」
 思わず大声を出してしまった。さっと、周りの視線が集まる。俺は、誰にともなく頭を下げた。
「す、すいません」
「いや。いいんだ。社内の誰が聞いても、同じ反応を返すだろうさ」
 沢口さんは、にこやかに言った。
 俺は、これだけ楽しそうに話す沢口さんを見たことがなかった。
「でも、起業って、そんな気軽なものなんですか? そんなうまくいくとは――」
 つい皮肉を込めたような口調になってしまい、俺は言葉を途中で切った。
 沢口さんは、怒るどころか、声を殺して笑っていた。
「ああ。すまない。心遣いだけいただいておくよ。正直、妻からも同じようなことを言われ続けていて、いい加減耳にタコだったもので、ついね」

 

 程なく、電車が止まり、ドアが開いた。乗客とともに、夏特有の空気が一緒に入り込んでくる。ドアのすぐ近くの席は便利だけど、こういうところはマイナスだ。
 人口密度が上がった電車が再び走り出す。しばらくの沈黙のあと、沢口さんは静かに切り出した。
「私は、今日で会社を去る」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。返答に、かなりの間が空いてしまった。
「さびしく、なりますね」
「無理しなくていい。自分が陰で何と呼ばれているかくらい、知っているつもりだよ。きっと、明日には忘れられている」
「そんなわけ」
「そんなわけ、あるだろう?」
 静かだったけど、その口調には有無を言わせぬものがあった。
 俺は黙り込み、沢口さんはため息をついた。
「正直、ラストチャンスさ。何かを為すには、ぎりぎりの年だ。これを逃せば、きっと一生後悔する」
「ラストチャンスは、そんなに早いものなんですか?」
「僕にとってはね。鷹野君は僕と違って優秀だから、もっと遅くまでチャンスに恵まれるかもしれないね」
 最近は世間も転職に寛容になったことだし、と沢口さんは付け加えた。
「でもね。僕は、基本的には会社は替えないほうがいいと思う。会社と言うものは、社会に対する柔らかい殻のようなものでね。居続けることでのみ得られるものも少なからずあるんだよ。それを脱ぎ捨てるんだったら、相応の覚悟や理由が必要だ」
「要するに、俺はあそこに居続けろってことですか? どんな声がかかったとしても、愛社精神を貫け、と?」
「そんなことは言わないよ。ただね」
 沢口さんは、携帯電話を取り出して、ディスプレイを見せてくれた。そこには、赤ん坊を抱いた女性と、小さな男の子が写っていた。
「妻と、娘のユキ。そして、三つ上の息子のコウスケ」
「かわいい盛りですね」
「ああ。かわいいよ。本当」
 沢口さんは目を細める。その表情のまま、ぽつりとつぶやいた。
「僕は、この大事な家族から反対されたんだ。それでもやるって、僕は決めた。それくらいのことなんだってことだけは、君にはわかってほしい」
 電車が俺たちの降りる駅に到着した。奥に居た沢口さんのほうが先に立ち上がり、手前の俺が促されて電車を出る形になった。このとき初めて、沢口さんの身長が自分より高いことに気づいた。

 

 そして、その日、沢口さんは、終礼で退職の挨拶を述べた。
 朝話してくれたようなことは、一言も告げず、ただ、一身上の都合で辞めます、今までお世話になりました、と、簡単な挨拶で終わった。表情も、普段どおり淡々としたものだった。同僚たちの反応は、すべて沢口さんが予想していたとおりだった。

 

 あれから、二十年近くが経った。ビジネス系のウェブサイトで、沢口さんのインタビュー記事を見た。いまや、カリスマ経営コンサルタントと呼ばれるその人が、画面の向こう側で笑みをたたえていた。掲載されていた写真には、当時の面影は残っていたが、雰囲気はまるで別人だった。
 今、彼を笑えるものは、この会社のどこにもいない。話題に出せるものさえ、誰一人としていなかった。
「かつては『窓際』とまで罵られたくらいのダメ社員でした」
 そんな言葉が、見出しで踊っている。
 記事は、今年の新入社員の話題から始まって、それから彼なりの教育論が続く。俺は、その文章を斜め読みして、ブラウザを閉じた。

 

 俺もずいぶんと年を取った。
 自由に動ける年齢はとうに過ぎていたし、沢口さんの言葉は、あのときよりも数倍リアルに俺の肩にのしかかってきている。守られている、と思うことさえあった。
 今では俺も、陰口をたたかれる側だ。言っている当人たちは隠しているつもりでも、それがどれほどお粗末極まりないことか、ようやくわかった。

 

 殻の中と外、どちらがよかったのだろう。ときどき自分で自分に問いかける。
 それに答えてくれる人は、もう隣にはいない。

 

END

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