光陰矢の如し。
十余年という歳月をかけて、その言葉の重みは、昔よりぐっと増した。
持ち込んだまま放置され、今や開くことさえ困難となった古雑誌。
白く埃のかぶった、グローブとボールのセット。
当時毎日のように使っていた机につけられた、傷跡と落書き。
何より、そんな机の上に置きっぱなしの、ポラロイドカメラ。
すべてがあのときのまま。
埃が積もった以外は何も変わっていない。
傷ついた机の上に腰掛け、傷跡をなぞりながら、この部屋で過ごした最後の日のことを思い出す。
「もうここ、誰も使わないんだよな」
「何か、軽く信じらんないな」
俺、八坂、夏木の三人は、三年間住処としてきた自分たちの部室を、ぼんやりと眺めていた。
「あと、葉山だけだぞ」
振り返り、俺は後輩に声をかけた。ポラロイドカメラを首から提げた彼は、仏教徒みたいに両手を合わせ、うろうろと視線をさまよわせていた。
長らく親しんできた俺たちの母校は、俺たちの代の卒業をもって、その歴史に幕を閉じることになった。
いわゆる、廃校という奴である。
「何だ。葉山、まだ決まってなかったのかよ?」
「ったく、こんなんテキトーでいいんだよ。どうせ何も残りやしないんだから」
夏木と八坂が、口々に葉山をせかす。葉山は、合わせた手の指先だけをせわしなく動かし始めた。呪文みたいに「えーっとー」という言葉を繰り返す。
「別にいいだろ? 今すぐここがなくなるわけじゃないんだから」
俺は部長らしくフォローを入れた。
「いや、そうだけどさぁ」
「せっかくの貴重な午後が、このままだと潰れちまうぞ?」
二人は、口々に文句を垂れる。
「大体さ。こんなのマジでテキトーでいいんだって。所詮ただの悪戯なんだしさ」
八坂の言葉に、そうそう、と夏木がうなずく。
学校最期の日。俺たちは、タイムカプセルと称して、ここに何か記念を残すことにした。
と言っても、普通のタイムカプセルみたいに、どこかに埋めたりしないし、掘り起こす日も決めたりしない。それどころか、引き取る気さえなかったりする。部室に俺たちの痕跡を残したいだけ、と言えばまだかっこいいが、要するに体のいいゴミ捨てだ。
「だから、ちゃっちゃと決めちゃえよ」
「じゃあ、写真」
せかす八坂に、ついに葉山が口を開いた。
「やっぱり、写真がいい」
「だから、それは却下」
葉山が同じことを提案して、八坂が即座に蹴る。これで四回目だ。
「何度も言わせるなよ。俺なんか、机に思いっきり落書きしちまったんだぜ? 犯人は俺でーす、って言ってるようなもんじゃん。だから却下」
「先生にはすぐにばれるよ」
「先生にはばれても、工事現場のおっちゃんたちにまでばれたくないの」
「別に、工事現場の人が先輩を知ってるわけじゃないと思う」
「だからって、工事現場の人が俺を知らないとも限らないだろ? ここ、ド田舎なんだから」
葉山が黙り込むと、八坂は大げさにため息をついてみせる。
「葉山って、おとなしいけど、ときどき妙に強情なんだよな」
「だな」
俺と夏木は、ひそひそと言葉を交わす。
「どっちが折れるかな?」
「俺、八坂に千円」
「じゃ、俺は葉山」
そんなやり取りを知ってか知らずか、葉山と八坂はなおも口論を続ける。
「でも、僕ら、写真部なんだよ? 写真部が何で写真を残さないの?」
「だから、タイムカプセルったって、実際はゴミ捨てみたいなもんだろうが。生真面目に部らしいことしよう、っていうのがそもそもずれてんだよ」
「おかしいよ、そんなの」
葉山は部室の中に入っていく。
「どんな形にせよ、何か残すんだったら、写真残したいじゃん。工事現場の人に見られるんだったら、ゴミなんかよりも作品見てもらいたいじゃん」
「俺たちの撮ったものなんて、誰もそんな風に見ねぇよ」
「そんなのわからないじゃん。いつか、この中からプロの写真家が出るかもしれないじゃん」
「そりゃ、お前のことか?」
八坂が鼻で笑うように言うと、葉山は目をむく。
「そうやって、夢語るのは自由だけどさ。それを俺らにまで押し付けるの、やめてくれる? 夢だけで生きてくとか、好きだけで生きてくとか、性質の悪い宗教にしか聞こえないんだけど。夢なんてのは、所詮ガキの見る夢でしかないって、どうしてわかんないかな?」
「どうして!?」
間髪入れず、珍しく声を荒げた葉山に、俺たちは体を震わせた。葉山はしばらく肩を怒らせていたが、急に肩を落とした。
「みんなそう」
静かな声だった。
「小さいころは、警察官になりたいとか、野球選手になりたいとか、みんな何かになりたいって言っていた。でも、今は、ここの学校なら入れるとか、偏差値はいくつだとか、そんなのばっかり」
「だから、お前の価値観ばっかり押し付けるんじゃねぇよ。暑苦しい」
八坂が突き放すように吐き捨てた。葉山は、「先輩だって、押し付けてるじゃん」と言うと、同意を求めるような目で夏木を見た。
「俺から言わせりゃ、どっちもどっちだけど。ただ、みんながみんな、葉山みたいにはできないことも事実だと思う」
葉山の視線は、俺に移る。一途な視線が痛々しくて、俺は、黙って首を左右に振ることしかできなかった。
「そう……」
葉山は力なくうつむいた。俺たちの間で、気まずい沈黙が流れる。
どれくらい経っただろうか。葉山は無言で、自分の首から提げていたポラロイドカメラを机の上に置いた。そのまま、俺たちには目もくれずに、教室を出て行く。
「はや……」
とっさに声をかけようとした。だが、何と言うべきかがわからなかった。結局、俺たちは、黙って彼を見送ることしかできなかった。
葉山のポラロイドカメラを手に取った。息を吹きかけると、埃が敵意でも持ったかのように、こちらに向かって立ち上ってきた。思わずむせた。つんとする感覚が鼻の奥を突き刺してくる。
「忘れ物は、まだ、ありましたか」
声をかけられて、振り返る。背筋の伸びた老人が、にこやかな表情で立っていた。元、校長先生。今日、ここを取り壊す前に、最後にもう一度だけ校内の風景を見ておきたいと、昨日申し出があったらしい。
「ええ、まぁ。いちおう」
俺の煮え切らない返事でも、校長は満足そうにうなずいた。部室に入り、中をぐるりと見渡す。
「葉山君。がんばっているみたいですね」
「昔から、一度決めたらまっすぐな奴でしたから」
今、あいつの出した写真集が話題になってきている。葉山は、プロの写真家として急速に認知度が高まってきていた。
あいつは、純粋に夢を追いかけ続け、ついにはそれを手中に収めようとしている。
俺は、それをテレビのブラウン管越しに知った。同じ番組を見ていた同僚は、突然のヒーローの出現に、期待を膨らませ始めている。
「彼の首には、いつもそのポラロイドカメラがありました」
代々の写真部員の集合写真を見回して、校長は言った。今さら気づいたが、俺らの代だけそれがない。これらの写真は、毎年、卒業生の次の代が、卒業式の日に撮影していたことを思い出した。
「どうか、彼に届けてあげてくださいね」
「そう、ですね」
集合写真から振り返った校長に、俺は満足に答えることができたのか、自信はない。ただ、肯定とも否定ともつかない返事をして、持っていたカメラに目を落とした。
遠くで、重機のエンジンがかかる音がした。
「そろそろ、現場に戻ります。先生も、早めにここを出られたほうがいいですよ」
俺はポケットから軍手を取り出しながら、先に部室を後にした。作業着に身を包んだ同僚たちが、ばらばらと校舎から出て行くのが窓越しに見えた。各々、気持ちの整理がついたということなのだろう。
あとは、校長が外に出るのを待って、校舎の取り壊しが始まることだろう。この学校は、あと少しで本当に終わりを迎えることになる。

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